山田花子没後21年◆誰か花子を想はざる ‐1‐
生前の山田花子は、雑誌・ラジオ・テレビ・映画などで活躍していた有名人だったらしい。 だが、こちらは彼女のことを全く知らずにいた。 それで、彼女のことを調べるに当たってインターネット古書店の目録を調べ、1992年8月号の漫画雑誌「ガロ」を注文することにした。 20年余の昔に刊行されたこの雑誌が、山田花子追悼号となっていたからだ。 故人の全貌を知るには、雑誌の追悼号を読むのが、一番の近道なのである。 山田花子は、大変早熟なマンガ家だったようだ。 中3のときに早くも商業誌デビューを果たし、高1になると「なかよしデラックス」に1年間、連載漫画を掲載しているほどである。 そして20歳になって、「ヤングマガジン」に登場するに及んで、彼女は女流マンガ家として広く認められるようになるのだ。 そうしたこともあって、花子が24歳で亡くなったとき、雑誌「ガロ」の追悼号には数多くの関係者が原稿を寄せている。 それらを読むと、彼女は良識を備えた社会人として、才能豊かな女流マンガ家として、周囲から評価されていたことが分かる。例えば、内田春菊はこう書いている。 「そこらへんの温室育ちで女王体質の漫画家なんかよりよっぽど社交的で礼儀正しく、一人でもいろんなところへ出かけていける人だった」そのほかにも、雑誌には、 「私の周りの人たちは、みな彼女を好きだった」というような彼女を賛美する言葉が並んでいる。 にもかかわらず、彼女は24歳の5月に自殺してしまったのである。 花子の妹によると、変調は前年の夏頃から始まり、その時分から花子は妹を避けるようになり、メモ帳にしきりに何かを書き込んだり、パーティーに行くと誰にも断らずに不意に帰ってしまったりするようなことが増えたという。 花子は、漫画家になってから東中野のアパートで暮らしていたが、毎年、年末には多摩市にある実家に帰ってきていた。 ところが、変調を来した年の大晦日には仕事が多忙だといって帰ってこなかった。 年が明けて2月中旬頃(自殺の3ヶ月前)に、その花子からファックスが届いた。 「お父さん、おばあちゃん、ミーヤ(猫)元気ですか。私は元気、大丈夫」そのファックスには、母と妹への呼びかけが抜けていたので、母親などはそのことをひどく気にしていた。 家族が後から知ったところによると、ちょうどその頃、花子はアルバイト先から解雇されている。 ファックスが届いてから10日ほどして、警察から花子を保護しているという電話が妹のところにかかってきた。 飯田橋駅のホームに花子が放心状態でたたずんでいたというのである。 彼女は長かった髪を自分でバッサリと切り落とし、何日も着替えていない服を着て、ぼんやりホームに立ちつくしていたのだ。 警察官が怪しんで麹町署につれ戻り、いろいろ問いただしたが、彼女は最初黙秘していて何も語らなかった。 が、やがて妹が青林堂に勤務していることを明らかにしたので、警察はまず妹に連絡したのだった。 妹は警察に出向き、姉の身柄を引き取って、まず、東中野の姉のアパートに連れ帰った。 自動車のセールスマンをしている父と、小学校教諭の母も、娘のアパートに駆けつけたが、花子には特に異常な行動は見られなかった。 何事もなかったように、音楽を聴きながらノートに何か書き込んでいるだけだった。 しかし、彼女はひどくやつれて、心身ともに疲れきっているように見えた。 両親は、花子を多摩市の実家に連れ帰り、ゆっくり休養させることにした。 が、花子は容易に「うん」とはいわない。 数時間かけて説得し、ようやくその気にさせて電車に乗りこんだものの、新宿駅でトイレに行くといって、それきり女子便所に立てこもってしまったり、いきなり改札口に駆け込もうとしたりする。 そんな彼女をなだめたり説得して電車に乗せ、両親の自宅に戻った。 実家で過ごしたのは1日に過ぎなかった。 翌日、花子がケーキを食べたいというので、父親が買いに出た隙に花子は家を逃げ出して、東中野に戻ってしまう。 翌日、彼女のアパートに行ってみると、花子が一夜をそこで過ごした様子はあるけれども当人の姿が見えない。 家族がどこに行ったのか心配していると、翌日の夕刻に又警察から電話があった。 花子は、解雇されたアルバイト先の喫茶店に押しかけ、従業員控え室に座り込んで動かないというのだ。 父親が娘を引き取りに行くと、控え室の奥に座っていた花子が訴えた。 「みんなが私をいじめるの」父親が、「お父さんが来たからもう大丈夫だぞ。安心しろ」と言うと、由美は少し浮かせた腰を落として、大きくうなづいた。 翌日の朝、花子はシャワーを浴びた後、屋内を裸で走り回るなど錯乱状態に陥った。 そして小学校教師の母親が持っている「いじめ」や登校拒否に関する本を床に投げ出して叫び始めるのだ。 「お前はこうゆう本を読んで子供をいじめているんだろ。こうゆう本が児童をダメにしてるんじゃ。お前には主体性がないのか。自分の考えというものがないのか」彼女の顔には、母親を拒否する表情が浮かんでいた。 こうなっては、もう精神病院の診断を仰ぐしかない。 娘を病院に連れて行くと、医師は入院させる必要があるという。 父は、入院の手続きをするために事務室に向かったとき、そこで医師から、「分裂病ですね」と告げられる。 入院して1週間の間、花子は母親と妹に面会することを拒否していた。 二人に対して強い敵意を抱いているようだった。 だが、入院1ヶ月もすると、表情も穏やかにになり妹や母とも面会するようになった。 そして、さらに半月ほどすると、漫画も描けるようになり、「ガロ」に「四つ葉のクローバー」という題名で作品を発表するまでに回復した。 病気が順調に回復したので、花子は5月23日に退院することになった。 両親はうち揃って病院に出かけ、元気になった花子を多摩市の自宅に迎え入れた。 しかし花子は、その翌日の24日に自殺しているのである。 母親は花子が自殺した日の様子を、かなり精細に記しているので、その手記をここに要約してみよう。 娘が退院した翌日の朝、母親は花子を元気づけようと、映画を一緒に見に行かないかと誘っている。 だが、娘はあまり乗り気ではなさそうだった。 花子は、当日の日記にこう書いている。 マム「『橋のない川』のチケットを2枚買っておいたよ。一緒に見に行かない」(げ~)花子は母から映画に誘われた数時間後に、母と共に東中野のアパートに出かけた。 東中野駅で降りて、缶コーヒーを買ってアパートヘ。 大家に6月分の家賃を払い、母娘一緒に挨拶した。 「病気が良くなったので、時々アパートに帰って仕事しますのでよろしく」アパートの部屋は、3ケ月近く留守にしていたので、花子は窓を全部開けて掃除をはじめた。 雑誌やごみを整理してしまうと、彼女はコインラソドリーで洗濯してくると言って外に出掛ける。 出かける前に、コインがないと言うので、母は娘に5百円玉を渡している。 やがて、花子は、「乾燥機にかけてきたから」と言って戻ってくる。 そのうちに雨が降り出した。 外は雷雨。稲光が窓の外を走る。 激しい雷鳴。 母親は、つとめている小学校での運動会練習の疲れから、娘のベッドでうとうと眠ってしまう。 やがて目を覚まし、テレビを見たり、本を読んだりはじめる。 その間、花子は一人でせっせと掃除と片付けをしている。
京王線の電車のなかでは、母娘は離れた席に座っていた。 高幡不動駅で母が切符を精算しようとすると、花子が「お母さん、精算機があるよ、こっち」と教えてくれる。 電車を降りてから、母が、「京王スーパーで買い物して帰るけど、どうする」と娘に尋ねると、花子はしばらく考えてから、 「一人で先に帰るから」と言うので鍵を渡した。 母は、うつむき加減にバス停に向かって歩いて行く娘の後ろ姿を暫く眺めていた。 娘は一昨年の正月に母の箪笥から持って行った黄土色のカーディガンを羽織り、花模様のプリーツスカートをはいていた。 それが、生きている花子を見た最後だった。
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新「年寄りの冷や水日記」|山田花子の自殺‐1‐より Text By 老子的アナーキスト |