山田花子没後21年◆誰か花子を想はざる ‐2‐
山田花子の「自殺直前日記」を読むと、巻末に専門学校時代の親友船橋恵美子による、「高市さんの思い出」という文章が載っている(花子の本名は「高市由美」)。 「ガロ」の追悼号には花子の人柄をほめたたえる文章が載っていたが、この友人も花子を心から敬愛していたようなのだ。 高市さんは決してでしゃばったり、怒ったり、人の悪口を言うことはなく、いつも謙虚で礼儀正しく、たまにそれが度が過ぎて謙虚にしている方も、される方も、なんだかお互い滑稽になってしまい、おかしくなって笑ってしまう時もありました。そんな時、高市さんは、恥ずかしそうに、又、無邪気に笑っていました。私はそんな高市さんが大好きでした(船橋恵美子)これらの山田花子を賞賛する文章を読んだ後で、「自殺直前日記」を読んでみる。 すると、読者は、関係者の証言と山田花子の実像との間の落差があまりにも大きいので茫然としてしまうのだ。 既述の通り、花子は飯田橋駅のプラットホームに立ち尽くしているところを警察に保護され、実家に連れ戻されたものの、その翌日には花子は、実家をぬけだして、再度警察に保護されている。 実家に戻された彼女は錯乱状態に陥り、裸で家の中を走り回ったり、母に本を投げつけたりしたため、ついに精神病院に入院する羽目になる。 入院した彼女は、医師の問診を受けた後に、病室で次のような日記を書いている。 4月18日精神医学の方では、「狂人を装うものは、狂人なり」という定義があるらしい。 とすれば、この時点で彼女は確かに狂っていったのである。 だが、狂気に走った原因が、東中野のアパートに帰りたい一心からだったということになれば、同情の余地がある。 ノートには、自殺する前年の大晦日に、帰省しなかった理由も書いてある。 <クリスマスの夜私はひとりぼっち>妹は、陰になり日向になりして姉を守ってきている。 花子がバンドを作ったときには、妹はそのバンドに加わっている。 花子は気の重いパーティーに出かけるときなど、妹を誘って出かけ、会場に着くと妹の背後に隠れるようにしていたのだ。 彼女はそんな妹が怖くて帰省できなかったというのだ。 山田花子は大小20冊余のノートに、こんな具合に彼女自身の気持ちを正直に書き遺している。 これらのノートを読めば、彼女が周囲の人々や自分をどう見ていたか手に取るように分かるのである。 ▼山田花子のノート▼ しかし彼女は母に論戦を挑んでもかなわないし、妹にもあらゆる面で及ばないと思っていた。 プライドの高い彼女にとって、この二人の強者は、「天敵」のような存在だったのである。 花子は、母について書いている。 教師の母が叔母に向って、彼女は、ノートに母との対話も記録している。 小学校の時、私はいつも一人で遊んでいた。議論をすると母に負けてしまう花子は、自分がすべての点で妹より劣っていると思っていた。 私は妹が怖い。妹にも負けなければならない自分が情けない。母のトラウマ「姉のくせに情けない」私もふがいないと思っているが、一緒にいると怖くて耐えられなくなるので、できるだけ会わないようにする。どーしても会わなけれはならない時は、必要なこと以外しゃべらないようにする。彼女にはNという恋人がいたが、恋人に対しても厳しい目を向けている。 昔付き合っていた男。その時は「素敵」と思っていたが、しつっこくて、情けなくて、どーしようもない奴だった。山田花子のこうした毒舌は、まだ延々と続くのである。 ■‐3‐へ続く■ |
新「年寄りの冷や水日記」|山田花子の自殺‐2‐より Text By 老子的アナーキスト |